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賃労働と資本

『資本論』で有名な哲学者、カール・マルクスが書いた『賃労働と資本
資本主義における賃金についてとても分かりやすく書かれている名著です。

マルクスはこの本の中で賃金を説明する上で、『労働』と『労働力』とを分けて語っています。

“彼は労働を売るのではなく、一定の時間にわたり、または一定の労働給付の目的で、一定の支払いと引き換えに彼の労働力を資本家の自由にさせるのだ”

すなわち労働者は自身の労働力にかかる自由を資本家に提供するのであって『労働』自体を売るわけではありません。
では『労働』とはなんでしょうか。『労働』とはここでは利潤を生産する“もの”です。

“資本家は『労働力』を買ったのちは、労働者を約定の時間だけ『労働』させることによってそれを消費するのである。”

つまり『労働』は資本家によって消費されるものなのです。なので『労働』によって生まれた利潤は資本家のものであるということが言えます。
この場合、利潤を実際に生み出しているのは労働者であるにも関わらず、利潤は資本家の手に入ります。これが有名な『搾取』というヤツです。

では、搾取が行われているこの過程の中で労働者の賃金はどう影響を受けるのでしょうか。
本書の中ではこう書かれています。

“労働力が他の諸商品と交換される比率を彼の労働力の交換価値を表現する。”

これはつまり『賃金』が他の諸商品と交換可能なものとして支払われるということです。では具体的にこの『他の諸商品』とは何かを見て行きましょう。マルクスは次のように表現しています。

“それ(賃金)は労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者として育てあげるために必要とされる費用である”

そしてこうも述べています。

(労働者は商品が)“作り上げられるずっと前に労賃を受け取ったのである”

つまり賃金とは労働によって作り出された利潤の分け前ではなくて、労働者が労働者たるための費用なのです。
この「分け前ではない」という一文が重要です。究極的には100円の労賃で雇った労働者に100万円分の仕事をさせたとしても、労働者に支払う額は100円である、ということです。
本書ではこう続きます。

“だから労働力は、その所有者たる賃労働者が資本家に売る一商品である。なぜ彼はそれを売るのか?生きるためだ!”

僕はこの文で、マルクスは賃労働者の悲痛な現状を訴えているように思いました。
事実資本主義とは、『労働力を商品とするしかない人々』が生まれてから登場した仕組みです。賃労働者には労働力を売るしかないのです。なんという悲劇的な話でしょうか。でもそれが今の世の現実です。

『労働』と『労働力』、そして『賃金』と『賃労働者』を見た時に、資本主義の姿が何となく見えてきませんか。しかしここまでで肝心な『資本』が出てきません。
『資本』と『賃労働』にはどのような関係があるのでしょうか。マルクスは言います。

“資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする。それらは相互に制約し合う。それらは相互に生み出し合う。”

『資本論』の中でマルクスは
資本A→商品→資本B
資本A<資本B
と言う式を編み出しました。これは資本を用いて商品を買い、より多い資本(この多い部分が前述の利潤です)を生み出す。という意味で、資本主義の構造そのものです。

ここで商品の欄に賃労働を入れてみると…
資本A→賃労働→資本B→賃労働→資本C……
賃労働を介して資本は増えていきます。

“資本は労働力と交換される事によってのみ、賃労働を生み出すことによってのみ増殖され得る。賃労働者の労働力は、資本を増加させる事によってのみ資本と交換され得る。だから資本の増加はプロレタリアートすなわち労働者階級の増加である。”

資本が労働を介して増えていく中で、賃労働者は一緒に増えていく必要があります。労働者の増加は単純な出産だけではありません。資本家階級からの転落者もまた新たな労働者となるのです。

“ある資本家は、より安く販売することによってのみ他の資本家をうち破り、その資本を征服することができる”

資本家もまた資本の獲得のために戦っているのです。

ここまでで僕は疑問を持ちました。前述の式によるのであれば、労働者の賃金は上がるのではないか。なぜならばより一層の増加を行うためには金銭が必要となるではないか。と。
本書にはこうあります。

“資本の急速な増加は、利潤の急速な増加に等しい。利潤が急速に増加するのは、労働の価格が、相対的労賃が、同じく急速に下落する場合だけである。相対的労賃は、たとえ現実労賃が名目労賃・労働の貨幣価値と同時に騰貴しても利潤と同じ比率で騰貴するのでなければ下落し得る。”

つまり賃金は実質的にあがっても相対的には減少していると言う事です。これはどう言う事でしょう。そもそも『相対的労賃』とはなんぞや。
相対的労賃とは『資本』に対しての労賃の比率です。例えば労賃が5%騰貴した時に、資本(利潤)が30%増加するならば、相対的に労賃は減少していると言う事になります。
前述の通り、資本と賃労働は相互に制約し合い、かつ相互に生み出し合うものです。にも関わらず資本の方が多く騰貴してはその差は大きなものとなりやがて越えることのできない亀裂となるのです。

じゃあ増えなきゃいいんじゃね?と思います。思ったでしょ?ですがここにも問題があります。
なぜならば先ほどの例にもある通り労働者階級にとって最も有益なのは資本の増大です。なぜならばそれが行われる時こそ自分達の価格も上がるからです。しかしながらどんなに資本の増大を図っても、相対的労賃は減少し続けるという状況が続くわけです。困ったものです。

一方資本家の方でも戦いが繰り広げられています。資本家は利潤を得るために商品を販売しなくてはなりません。しかし同じ商品を売っていたのでは相手を打ち破ることはできません。利潤を自分のものにするためには商品を『安く生産する能力』が必要になります。
ここで出てくるのが『分業』と『機械の使用』です。

“分業が行われる労働者軍が大きくなればなるほど、機械の採用される規模が巨大になればなるほど、生産費はますます減少し、労働はますます多産的となる。だから資本家たちの間では、分業及び機械を増加しそれらを出来るだけ大規模に利用しようとする全面的な競争が生ずる。”

この競争に敗れた資本家は、労働者階級へと転落するのです。つまり資本家は利潤を増加させ続けなくてはならない宿命にあります。
ここでまたいつの間にか『賃労働と資本』の関係が出てきます。つまり分業と機械の使用により労働者の賃金はどう変化するのでしょうか。

“より進んだ分業は一人の労働者に五人十人二十人分の労働をさせる。だからそれは労働者たちの間の競争を五倍十倍二十倍に増加させる。労働者たちは一人が他人よりも自分を安く売ることによって競争しあうばかりではない。彼らは一人が五人十人二十人分の労働をすることによって競争し合う。そして資本によって採用され、絶えず増進させられる分業は、労働者たちがこの種の競争をし合うことを余儀なくさせるのである。ーさらに分業が進むのと同じ程度で労働が簡単化される。労働者の特殊的な熟練は無価値となる。”

生産様式の変化は利潤をもたらしますが、労働者にとっては死活問題です。採用される人数が減ると労働者は自らの労働力を売ることができません。
前に言ったマルクスの言葉が浮かびます。

“なぜ彼らはそれ(労働力)を売るのか?生きるためだ!”

だから労働が分業されようとも機械の使用により簡単化されようとも、どんなに不満で不快なものであろうとも労働力の安売りは続きます。その結果、賃金は下がれども資本はどんどんと増えていくのです。
そして増大を続けた資本ややがて恐慌を引き起こします。その恐慌によって没落する資本家や労働者が溢れ、また労働力の安売りが始まるのです。
マルクスはこう表現しています。

“資本は労働によって生活するだけではない。上品であると同時に野蛮な支配者たる資本は、自分の奴隷の死体を、恐慌で没落する全犠牲労働者を、墓穴に引きずり込むのである。これを要するにー資本が急速に増大すれば労働者間の競争は遥かにーそう急速に増大する。即ち労働者階級のための雇傭手段たる生活手段は相対的に益々減少するが、それにもかかわらず、資本の急速な増大は賃労働にとって最も好都合な条件なのである。”

自らの生活手段が相対的に減少するにも関わらず、それが最も好都合な条件であるというのは何とも皮肉なものです。しかしそれこそが『賃労働と資本』の関係なのです。
マルクスはこの著作の後に盟友エンゲルスとの共著『共産党宣言』を著し『資本論』という大著へと進み志半ばで死亡します。

ここに書かれている状況を僕はどこかで見たような気がします。
そう、今の世界です。先進国の一部富裕層に資本が集まり、その他の労働者たちが搾取され、けれども景気が良くなることが求められ続ける日々。
まるでこの本に書かれているような状況ではないでしょうか。
この終わりなき負のスパイラルを脱出する方法はあるのでしょうか。
その答えを我々が出さなくてはならないのかも知れません。
マルクスの心情は計りかねますが、『なぜ彼はそれを売るのか?生きるためだ!』と言う一文は重く心にのしかかるような気がします。

※斜体部分は岩波文庫『賃労働と資本』から引用しております。


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