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『優しさ』について

気遣いは配慮というものは必ずしも優しさによるのではない。
 それらはほとんどの場合侮蔑の意を孕んでいる。しかし当人すらもそれを優しさであると錯覚してしまっている。
 弱者への配慮、特に抑圧された集団への配慮が優しさを母体とすることは凡そほとんど存在しない。それは己を強者と見た上での明確な差別の意識をもって行われる。

 優しさは差別とは遠いところにあるように見えて極めて近しい場所にある。誰彼は優しいと嘯くとき、概ねそこにあるのは侮蔑の意である。ただ侮蔑の思惟をもってしても、当人にそれが優しさと映るのであれば、なるほどそれは偽りの仮面を持った優しさと言えるかもしれない。而してその優しさは必ず仮面のはがれる時がやってくる。その時彼らはその侮蔑を優しさという名の剣に変えて公然と戦うのである。優しさ、特に抑圧された集団への配慮は凡そ敵意と同じ意味を持つ。

 自らを犠牲にすることは優しさではない。自らを自らの立つべき位置において、彼らを全くの異心なく弱者と呼ばわり、而して自ら手を差し伸べることの他に優しさと呼ぶに足る行為はない。他人はそれを専ら偽善と呼ぶ。

 善の善なる者は凡そ優しさを持ちえない。彼は既に善なのである。偽善と呼ばれる行為のいくばくかは、自らをより高尚なものへと辿り着かせるための切実な思惟からくる行為に他ならない。そうして人はそれをある立場からは偽善と罵り、又ある立場からは優しさと呼ぶのである。

 他者への侮蔑が心中に現れることは必然である。なぜならそれは、常に自分が他人とは違う存在であるという確認作業に他ならない。然るにその侮蔑が最終的に優しさという評価を得るようにと人は努める。それが自分への欺瞞であったとしても一向にかまわないのである。そうして自分の周りを優しさのみを映す鏡で埋め尽くそうと躍起になる。そうして周りが見えなくなった時、私は優しいと自負するに至る。

 優しさとはそんな欺瞞と侮蔑で拵えたものだけであろうか。真の優しさは自らの心中の侮蔑の意を知りながら、それを超越したところにある禍々しさを持ち合わせた剣を、自らの意志をもって手に取ることである。私は彼を侮蔑する、しかし私は彼に手を差し伸べる。この時私の持つ剣が終には私自身を斬ることをも厭わない。そう決心した時に侮蔑は『優しさを帯びる。

 私は優しい人間でありたいと常々考えている。ただそれが私自信を傷つけるのを恐れて、未だにこの剣を持つことを躊躇う日々を今は送っている。


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