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権利のための闘争

【権利=法の目標は平和であり、その為の手段は闘争である。】

わりかし物騒な文句で始まるこの『権利のための闘争』はドイツの法学者イェーリングが著した本です。
この文の後にはこう続きます
【権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り、権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。】

まるで闘争原理主義者みたいな言い方ですね。いきなりこんな事言われたら普通にひきます。
しかしイェーリングは当然まじめにこれを著しているのです。一体どう言う事なのでしょうか。

端的に言えば、『自らの権利のために法の下で戦うことは義務である』ということです。

なぜ義務なのか?
それは不法や恣意(自分勝手)が厚顔無恥に社会に蔓延することを防ぐためです。権利者が権利を行使しないことは金銭的な価値が仮に全くなかったとしても闘争をやめてはならない。と説きます。
無論なんでもかんでも闘争によって解決すべきということではありません。あくまで法の手段は闘争であると言うことです。
この場合、法の手段に頼るべき時の権利者の状況は
【人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するような仕方での権利侵害に対して抵抗すること】
に限られています。最初の数行を読むだけではまるでイェーリングは闘争主義者のように感じられますが、ここまで読むと納得がいかなくもない内容です。

例え話として国土の話があります。
【隣国によって1平方マイルの領土を奪われながら膺懲の挙(征伐してこらしめること)に出ない国は、その他の領土をも奪われてゆき、ついには領土を全く失って国家として存立することをやめてしまうであろう。そんな国民には、このような運命にしか値しないのだ】
なんか今の日本みたいな状況ですね。
イェーリングは一度闘争すべき時に逃避したものは、自らの名誉と誇りを失うとも言っています。事実、恣意や不法を許し、自らを蔑ろにする人は、次々と恣意や不法に人権すらも奪われるでしょう。なぜなら彼は闘争を拒否し、権利=法を放棄したからです。彼に待ち受けているのは恣意や不法を増長させる事態です。“彼のせいで”恣意や不法は厚かましい態度を取ることになるでしょう。
だからこそ権利=法を持つ者(責任ある者)は“不法に対して”の闘争を行う必要があります。
【権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である】
とイェーリングは強く主張します。

恣意や不法が厚かましさを増長した場合、起こることはなんでしょう。それは、それ以上の恣意や不法がやがては社会に対しても向けられる事です。
「悪いこと(不法)をやっても抵抗されないんだったらやっちまおうぜ」
という意識を増長させるのです。
故に、【権利者の自分自身に対する義務は又、国家共同体(社会)に対する義務でもある】と言えます。

イェーリングはここで闘争からの逃避者の事を次のように断言します。
【戦線を離脱する臆病者は、他の人々が犠牲にするもの、すなわち自分の生命を救うには間違いない。しかし彼はその代わりに自分の名誉を失うのである。皆が彼のように考えたとしたら皆が敗北者になってしまうだろう。全く同じことが臆病に権利を放棄する態度についても言える。
蓋し、権利のための闘争は個人の課題であるにとどまらず、発達せる国家においては大幅に国家権力の課題となっているからである】
戦線離脱した『臆病者』のせいで、国家権力は恣意と不法の前に頽れると言うのです。ちょっと言い過ぎ感がありますが、事実増長した不法は社会に対して多大なる影響を与えます。

ここまで話をされると闘争することが権利者の義務であると言う言い方もなるほどな思わなくもないです。
しかし実際に自らの権利を無視した問題があったとして、それが微々たるものだとしたらどうでしょう。
例えば庭の石を一つ持っていかれた場合。これは所有権への侮蔑と受け取ることもできます。でも別に一つくらいなら許してやるか、と考えたりしませんか?(そもそも庭の石が一つなくなってても気づかない説は置いといて)
イェーリングはそれを許しません。金銭的な利害ではなく倫理的不快感を持って被害者は訴訟を起こさせなくてはならないと言うのです。
【被害者にとって大切なのは、系争物を取り返す事ではなく自己の正当な権利を主張する事である】

ただ現実的に、「べつに良いや」と言う人はいます。イェーリングにとって彼らは【裏切り者】なのですが、この裏切りが起こり恣意や不法の力が強める状況を良しとはしません。
この時、それでも権利を主張すると言う強き戦士たちのことをイェーリングはこう語ります。
【そうした事情の下では、法律を遵守させようとする勇気を持つ少数の人々の運命は苦難に充ちたものとなる。恣意を前に退却することを潔しとしない力強い権利感覚は、彼らにとってまさに災いをもたらすものとなる。彼らは本来仲間であるべき人々の全てから見捨てられ、一般の無関心と臆病により拡大された無法状態に1人立ち向かう。せめて自分自身に忠実であった、という“自己満足”しか得られないのに大きな犠牲を払うことによって、彼は世間から評価されるどころか、物笑いの種にされるのである。】
正直者が馬鹿を見るとはこのことですね。彼は“自分自身の権利”に忠実だったにも関わらず彼は“自己満足”しか得られず笑いの種にされるのです。ひどい…酷すぎる。
この問題について、イェーリングはこう続けます。
【そうした状態をもたらした責任は法律に違反した人々ではなくて、法律を守らせようとする勇気を持たない人々にある。不法が権利を駆逐した場合、告発されるべきは不法ではなくて、これを許した権利の方にある。
『不法を為すなかれ』及び『不法に屈するなかれ』という2つの命題について社会生活にとってのそれぞれの実際的意義を評価しなければならないとしたら私は第一番に挙げられるのは『不法に屈するなかれ』の方であり『不法を為すなかれ』は2番目だ。と言うであろう。蓋し人間の本性からして、権利者の断固たる抵抗を受ける確実な見通しの方が、原則的に倫理的命令としての力を持つにすぎない命令よりも、不法を思いとどまらせる可能性が大きいものだから。】
イェーリングは臆病な裏切り者を許しません。彼らが真っ当に権利者として戦っていたなら不法を思いとどまらせることができた可能性があったからです。
言ってることは正しいのですが簡単なものではありませんね。

【恣意無法というヒュドラが頭をもたげた時は誰もがそれを踏み砕く使命と義務を有する。“誰もが社会の利益のために権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ”】

そして、この理想を掲げるために、イェーリングは国民の権利感覚の涵養を図ることが重要であると語ります。
【国民の権利感覚の涵養を図ることが、国民に対する政治教育の最も重要な課題の1つなのである。国民各個人の健全で力強い権利感覚は、国家にとって自己の力の最も豊かな源泉であり、対内的・対外的存立の最も確実な保障物である。】

たしかに政治教育の充実は国家の力の源泉とはなるでしょう。しかし令和の世に生きる僕らは、政治教育による弊害を歴史の中で見てきています。そう考えると教育の方向性についても見なくてはならなくなると僕は思いました。

【国民の力は国民の権利感覚の力に他ならず、国民の権利感覚の涵養が国家の健康と力の涵養を意味する。
涵養とは(中略)生活のあらゆる面で正義の原則を実践する事である】

イェーリングはこう結びます。事実、権利の主張は時を逸すれば権利自身を失うことに他なりません。しかし主張が大きければ良いという訳ではないでしょう。
それが正しいと、胸を張って言うためには、それを害する事象が起きない限り言えないのではないでしょうか。
イェーリングはこの著作の中で『正義とは何か』を語りません。あくまで権利=法の意義は闘争にあるということに徹しています。
確かに僕らが日常生活で法律に触れる時は、何かしらと闘争をする場面でしかないと言えます(役場での手続きも、結局は届出の提出と受理の闘争ではあります。)

この著作によって、権利の主張としての闘争が正当化され、今の民主主義が切り開かれたのもまた事実です(本当に民主主義かとかそういう議論はよそでやりましょう)。

かなり薄い本(そう言う意味ではない)なのでみなさんも是非読んでみてください


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